【MPメルマガ 第68回】真田丸を3倍楽しく見る方法 中編 ~真田家の戦略的行動~ (2016年3月1日配信分)

こんにちは、MPCの外山です。

早いもので、気が付いたらもう3月です。今年は何日頃に桜が開花するんでしょうかね?

さて、前回から始まった「真田丸を3倍楽しく見る方法」ですが、今回で2回目です。

前回も書きましたが、今回の企画はこれを読んで何か具体的な知識が得られる(例えば、組織論とか戦略論とか)といったものではありません。「へー、歴史ってこう考えたら経営とか仕事の参考になるんだな」というような感覚を持って頂くことが今回の目的です。(歴史をモチーフにした組織論とかの話はまた別でします。)

前回は歴史上の出来事(主に戦国時代)を現代に置き換えるための予備知識の話をしました。今回からは真田家に起こった出来事をベースにして「現代に置き換えるとこういうことです」とか「この考え方は現代でも使えます」といった話をしていこうと思います。

なお、今回からの話には真田丸の「ネタバレ」の内容が含まれます。ですので、「ネタバレされたくない」という方はこれ以降の内容を1年後に読んで下さい(笑)

【歴史の流れ】

今後の話を進めていくにあたって真田丸の時代の出来事を整理しておいた方が話が分かりやすいと思うので、まずは真田丸の時代背景を”日本の出来事”と”真田家の出来事”に分けて整理しておきます。(いきなりネタバレします)

                 日本の出来事               真田家の出来事

1582年3月      ・武田家滅亡           ・主君を失い色々考えた末、織田家の配下に入る        
1582年6月      ・本能寺の変           ・また主君を失い、どうしようか悩む
1582年7月                       ・とりあえず上杉の配下に入るが、すぐに北条の配下に鞍替え
1582年8月                       ・北条を裏切って徳川の配下へ
1585年        ・豊臣政権発足(諸説あり)   ・徳川と対立(第1次上田合戦)上杉の配下になる
                            ・上杉の配下から豊臣の配下へ
1589年                         ・家康と和睦。真田信之(幸村の兄)本多忠勝の娘と結婚
                            ・信之が分家として独立
1600年        ・関ヶ原の合戦          ・昌幸と幸村は”西軍”嫡男信之は”東軍”として参戦(犬伏の別れ)
                            ・昌幸と幸村は高野山に幽閉。信之は上田藩主に。
1611年                         ・昌幸死去
1614年        ・大阪の陣            ・幸村”豊臣方”。信之”徳川方”として参戦
                             ・幸村は夏の陣で家康の本陣に突撃し死去

かなりざっくりですが、流れとしてはこんな感じです。一応今回の「真田丸を3倍楽しく見る方法」ではこれを”武田家滅亡~豊臣政権発足まで””豊臣政権発足~関ヶ原まで””関ヶ原~大阪の陣まで”の3つのくくりで書いていきます。
あと、書き方も普通に書いても面白くないので、現代の企業に例えて小説風に書きます。(多々ふざけた書き方をしますが、怒らないでください。)

【武田家滅亡~豊臣政権発足まで】

時は1582年。長野県上田市に「株式会社真田」という中小企業がありました。現社長の名前は真田昌幸。信州でやり手と言われた昌幸の父「幸隆」が設立した会社です。

株式会社真田は幸隆の時代に山梨の名門企業「タケダ自動車」の系列企業になります。タケダ自動車はカリスマ経営者「武田信玄」の時代に甲信越地方でシェアを拡大した日本を代表する大企業です。

タケダ自動車は数年前に関西進出を計画しますが、その途中で社長である信玄が突然他界。急遽、息子の「武田勝頼」が後を継ぐことになりました。

一旦はスムーズに事業を継承したかに思えた勝頼ですが、前社長のカリスマ性が強すぎたため、グループ内の企業の統制が十分に取れません。なんとか自分を経営者として認めてもらいたいと思った勝頼は数年前から急激に成長している名古屋出身の新興企業「織田技研工業」、三河の「トクガワ自動車」に対して競争を仕掛けますが、織田技研の最新技術とトクガワ自動車の組織力の前に完敗。創業の地である甲府で再生を図るも、上手く行かず1582年3月に経営破たんします。

困ったのは株式会社真田です。このままでは織田技研若しくはトクガワ自動車によって仕事を奪われ、最悪倒産です。社長の昌幸は悩んだ末ある決断をします。「ウチは織田技研の傘下に入る!」今までライバルだった織田技研の系列下に入り、織田と取引を行う。逆転の発想です。

驚いたのは昌幸の仲間の経営者たち「お前はタケダへの忠義は無いのか?」と散々反対されますが、この際、そんなことは言っていられません。何とか仲間を説得し、まとめて織田グループに参加します。

織田グループに入った㈱真田ですが、取引条件は極めて悪いものでした。まず、直接織田技研との取引は行えず、その関連企業の「滝川工業」の傘下に入れられます。先代の幸隆が作った群馬県の2工場も取り上げられてしまいます。しかも、取引の担保として娘も差し出さなければいけない始末…。中小企業であることを悔いる昌幸ですが、そこは我慢…。

そんな矢先また環境が激変します。織田技研の社長信長が役員である明智光秀に突如解任されます。信長は超有能な経営者でしたが個性が強すぎ「工場でスパナを投げつける」「怒ると怒鳴る」などの行動を日常的にしていたようです。有名大学卒のエリートである光秀はこれに耐えられず、役員会でクーデターを行います。

さあ、真田はまた経営危機です。もう一度戦略組み直しです。とりあえず、滝川工業の混乱に乗じて(というか滝川工業は情報収集能力が低いので、対応が後手後手に回っていました)群馬工場は取り返しましたが、取引先をまた探さねば…。

考えた末、昌幸は新潟に本拠を置く「上杉重工業」に取引を持ちかけます。上杉重工は雪国であるがゆえに4WD技術に定評があります。ラリー選手権でも何度も優勝しており、コアなファンを抱えています。また最近では幹部の直江兼続が”愛サイト”なる安全技術を開発。将来性もありです。とりあえずここに付くことにします。

が!すぐに上杉との取引は解消。関東の「北菱自動車」の傘下に入ります。北菱は10年ぐらい前に車の不具合で評判を落としましたが、最近ではEVで頑張っています。何より名門「北菱」のブランドがあります。やっぱりここに付くことにします。

ところが、群馬工場問題や、発注される仕事の問題で北菱が気に入らない昌幸。次に選んだのは東海地方を代表するメーカー「トクガワ自動車」です。

そして、この間日本には大きな動きがありました。元織田技研の叩き上げのエンジニア羽柴秀吉が大阪を本拠にして「豊産自動車」を設立。国内最大のメーカーに成長させます。そして、㈱真田の経営も豊産自動車と大きく関わりを持つのですが、その話はまた後ほど…。

【豊臣政権発足までの真田家の行動分析】

ここまでが、豊臣政権発足までの動きです。(簡単に書くつもりが長くなってしまった…)

こうやって見てみると節操ないですよね。真田昌幸は主君をころころ変えてとんでもない奴です。でも、良く考えてみると「よくこれで滅ぼされなかったな…」って思いませんか?普通こんなことをしたら北条・上杉・徳川のどれかに滅ぼされますよ。多分…。

では、なぜ真田家は滅ぼされずに上手く立ち回れたのか?ドラマでは「勘だ」と言っていますが、私が思うに「勘」ではないはずです。真田昌幸はかなり「戦略的にやっていた」と考えられます。少なくとも「目の前のことだけで」行動はしていないはずです。

まず、武田家滅亡後に北条ではなく織田に付いた理由ですが、もしこのとき仮に北条側についたとすると、とりあえずの安定は得られるでしょうが、その後「西から織田」「南から徳川」の圧力を受けることになります。また、直接軍事的な行動は無いにしても、「北の上杉」も北条と敵対しているので、3方向から真田家は圧力を受けることになります。しかし、ここで織田に付けば「西と南」の圧力は消滅します。

次に上杉に一旦従属した理由ですが、この時期上杉は北信の長沼(真田の本拠の隣)に侵攻してきているので、その抑えとしての意味があったと考えられます。

しかし、当時の上杉は国内の内乱等で謙信の時代ほどの国力は無いので、恒久的に連携するには不安が残る。また、もともと上杉家は「他国に侵攻しない」という方針なので、仮に真田が離反したとしても、侵攻してくる可能性は薄い(侵攻用の軍も無いかも?)。と昌幸は考えて北条側に離反したのではないかと思います。(もしかしたら、一旦上杉に付いた理由は上杉の内情を知るための情報収集の意味合いもあったのかもしれません)

そして北条に付いた理由ですが、これは北上野(今の群馬県北部。上の物語で”群馬工場”と表現したところです)の安定化のための時間稼ぎ的な意味合いが強いかと思います。ただ、上野国に関しては北条家と利害が対立することが分かりきっているので、その後北条家と敵対する徳川家に付くことになります。(敵の敵は味方という発想です)

今の会社に例えると「当面の仕事の確保(織田への従属)」→「本社の仕事の安定化及び情報収集(上杉への従属)」→「群馬工場の安定化(北条への従属)」→「群馬での新たな仕事の確保(徳川への従属)」こんな感じの戦略的意図を持って真田家は行動していたのではないかと思われます。(かなり強引な解釈ですがね…)

一応今回はこんな感じです。実はこれらの行動が成功した裏には真田家が持っていた「強み」の存在があるのですが、それはまた次回話します。

では・・・。

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