こんにちはMPCの外山です。

皆さんGW明けのリハビリは終了しましたか?
そろそろリハビリ期間も終わったと思うので、今回から
本格的にいきますよ。

と言っても、お遊び企画なので気楽に読んでもらえればいいですけどね。

今回は前回の予告通り、桶狭間の戦いの話をします。

【桶狭間の戦いのおさらい】

桶狭間の戦いは結構有名なので、歴史に詳しく無い人でも何となく
知っていると思いますが、一応ざっくりとどんなものだったかをおさらいしておきます。

桶狭間の戦いがあったのは1560年5月(旧暦6月)です。織田信長と今川義元の戦いです。
戦いの経緯はこんな感じ…。

1560年5月。京都への上洛を始めた駿河(静岡)の大大名今川義元が尾張(愛知県東部)に侵攻。
今川軍の兵力はおよそ2万5千対する織田は2千。織田の砦や小さな城が次々攻撃されます。
10倍以上の敵に対して織田家の家臣団は篭城戦(城に立て篭もること)を主張。
しかし、信長は「篭城戦では勝つ見込み無し」として、出撃を決断。家臣の反対を押し切って飛び出します。

慌てた家臣たちは信長を追いかけて、熱田神宮で合流。信長は熱田神宮で勝利祈願を行った後、
合流した兵2千を引き連れて、桶狭間(名古屋市南部)に侵攻。

そのころ義元は優雅に桶狭間で休憩中。まあ、「普通に考えたら余裕で勝つでしょ」とでも思って
いたんでしょう。そんな折、天候が荒れ始めます。
そこに突然現れたのが織田軍。桶狭間という狭い地形の場所で、しかも豪雨の最中に敵が現れたので
今川軍は大混乱。義元は馬周り(護衛の人たち)300人と逃げようとしますが、織田軍の猛攻に合い、
討ち取られます。

まあ、こんな感じの流れが桶狭間の合戦です。
これ、現代の経営に置き換えると、静岡の大企業今川が愛知の中小企業織田の市場に攻め込んできた。
ってことです。普通に考えたら今川の勝ちです。

一応言っておくと、今川義元というのは歴史ドラマでは「公家風の変な人」で描かれていますが、
実はこの人超有能です。恐らく能力としては、上杉謙信・武田信玄クラスです。やり手の大企業の社長と
思って下さい。

じゃあ、なぜそんな有能な人に率いられた組織が負けてしまったのか?逆に言えば中小企業の織田は
なぜ勝てたのか?その辺りを説明していきます。

【理由1:資源(兵力)の集中投入】

桶狭間の戦いで信長が勝てた最大の理由はこれだと思っています。

競争(戦争でも経営でも)においては「資源の量が大きい方が勝つ」という法則があります。
多少資源の質の差があっても、量が大きいほうが勝ちます。普通はそうです。

でも、そう考えるとおかしいですよね?この法則から言えば勝つのは今川です。でも、結果はそうなってません。
おかしいですね…。法則が発動しなかったんでしょうか?いえ、そうではないです。
桶狭間の戦いの場合は織田軍がこの法則を発動させました。でもどうやって?

織田軍は「桶狭間に兵力を集中させる」ってことでこの法則を発動させようとしました。つまり、「全体」としては
今川が優勢ですが、桶狭間に兵力を集中させることで「局地」では織田が優勢にしようとしたわけです。

現代に置き換えると、「ニッチな市場を狙った」若しくは「専門特化した」ってことです。これ、<戦略編>でも
話しましたが、小さい組織が大きな組織と競争するときの基本戦略です。

現在でもこの戦略を採っている事例はあります。例えば…
トヨタvsスズキ(スズキは小型車に集中)
マクドナルドvsケンタッキー(ケンタッキーはチキンのみに集中)
こんな感じです。

【理由2:思いもよらぬ奇襲】

ただ、戦力を集中させたといっても、実は桶狭間の今川本陣と織田軍の兵力の比率はまだ5千対2千ぐらいです。
うーん。まだ織田軍は劣勢ですね。もう一押し何かがないと、勝てません。

その一押しが「奇襲」です。先ほど、おさらいのところでも話しましたが、桶狭間で織田軍に攻撃をされたとき、
今川軍は休憩をしていました。(昼飯を食べていたとかお酒を飲んでいたとか言われてます)
しかも、豪雨が降って今川本陣はてんやわんやです。要は、戦える状態になっている奴がいない。ってことです。
織田軍は2千人を資源として使えるのに、今川軍は5千人いても実際に使える人数は大幅に少ない状態です。

そこに織田軍が攻めてきたので、今川軍は大混乱。最終的には300対2千になって今川義元は討ち取られます。

これも現代に例えると、「相手が予想出来ない商品を出した」とかそういう感じになります。
相手が対抗出来る準備が出来ていないところを攻めるっていうのも戦略としては基本ですね。

【理由3:意思統一・目的の明確化】

信長は桶狭間の戦いをするにあたって部下に「首は捨てうちにせよ」=「今川義元のみを狙え。
他はどうでもいい」という命令を出してそうです。

こうやって部下に「何をすべきか?」ってことを明確に伝えて、組織として動けるようにした
ことも勝利の要因として大きいです。

あと、組織として動かしやすい直轄部隊を使ったっていうことも大きいですね。

こうやって考えてみると、理由1~3までは小さい組織だったから出来たって面もあると思います。

しかし、これら3つのことをするためには、どうしてもやっておかなければならないことがあります。
それが次の理由です。

【理由4:現場での情報収集】

戦力を集中させるにも、奇襲を仕掛けるにも、明確な指示を出すにも必ずやっておかなければ
ならないことがあります。それが「情報収集」です。

これは私がメルマガでもさんざん言っていますが、情報戦に弱いと競争に勝てません。
人や物や金が豊富にあっても、情報がないと勝てません。

これ私の推測ですが、信長は実際の戦闘の前に「熱田神宮」で情報収集をやっていると思います。
なぜ熱田神宮なのか?一応私なりの理由を説明すると…。

まず、熱田神宮の地理的な位置です。信長の本拠地清洲城と熱田神宮、桶狭間の位置関係を
地図で見てもらうと分かるのですが、熱田神宮は戦いの前線に近いです。ですので、精度が高い
情報をすばやく得ることが出来ます。

次に、熱田神宮は大きな神社なので、門前町があるはずです。ということは、人が多いってことです。
人が多ければ情報も多く集まるはずです。地形にも詳しいはずです。
清洲にいる人たちよりも、色んなことを知っているはずなので、ここで情報収集をすれば有用な
情報が得られるはずです。

あと、当時の神社やお寺に出入りする人は諸国を旅して、情報屋とかスパイとしての役割を
持っていたりするので、こういう人からも情報が得られます。

こうやって信長は実際の戦いの前に「現場の情報を取っていた」と思います。

ちなみに、この情報収集がまずかったのが今川義元です。義元ともあろう人がとは思いますが、
油断があったんでしょう。そこを突かれました。
(もし、信長がどこにいるのかの情報が分かっていれば、少なくとも奇襲されることはないですからね)

とにかく、「現場に行って情報を集めた」ってことは非常に重要です。

【その後の織田軍】

ということで、長くなりましたが桶狭間の勝因を分析するとこんな感じです。

桶狭間で大勝利を収めた信長ですが、その後は小良く大を制す的な戦略はほとんど使わなくなります。
逆に規模で勝負するようになります。

じゃあ、なぜその後この桶狭間の成功事例を使わなかったのか?
そして、戦略の転換の先に待ち構えていた課題とその解決策の話は次回します。

では・・・。

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